2008年11月27日木曜日

雨のち晴れの列福式

 生野教会巡礼団18名と共に今朝25日10時無事に、そして深い感動と新たな決意を胸に『列福式』から帰ってきました。

 大東教会の大山さん初め、長崎出身の信者の方々を中心としたグループと、パウロ会のファミリーのグループと総勢54名で、22日午後、2台のマイクロバスで出かけました。大阪から福岡までは往復フェリーで、船中で二泊し、世界遺産の候補、長崎教会群に選ばれている田平、宝亀、紐差、生月、平戸の教会、それから。ガスパル様で親しまれている、このたび福者に上げられたガスパルの殉教地を廻りました。

 隠れキリシタンの里、生月の教会では、王であるキリストを祝いました。この教会で洗礼を受け、初聖体、堅信も受けたと言うパウロ会のH師が司式をされ、100年前信徒発見に関わったミッション会と繋がりのあるC師、そして400年前この地に上陸した最初のフランシスコ会の兄弟ホアン・プブレと同じ兄弟会の属する、月足らずな者ではありますが私との共同司式で、隠れキリシタンの子孫と巡礼者たちが共にミサを捧げました。典礼聖歌の123番『主はわれらの牧者』を歌っている時なんともいえない感動を覚えました。

 列福式当日は予報どおり朝から雨でした。平戸を朝7時に出発し長崎市内に入る頃、一旦雨がやみ、日が差してきて一同歓声を上げました。市内は列福式一色といった感じで、会場の近くは、各地からかけつけた信徒の群れで溢れていました。頭ひとつ出して歩いていたルカ兄弟を見つけ、バスの中から声を掛けたが気がつきませんでした。前日から58キロ歩いてきた青年たちと一緒に歩いていた松井兄弟も見つけました。長崎と福岡の兄弟たちは勿論、長谷川管区長はじめ東京からも北海道からも数人の兄弟たちが参加していました。

 また、ローマの教皇特使をはじめ世界各地から、特にアジアの韓国やベトナム、フィリピン、インドの枢機卿や司教様方も多数列席しておられました。式が始まる前からまた少し雨が降り始めて、あたりは真っ黒い雨雲に覆われ、これからどうなることかと心配されたのですが、ミサが始まってからは雨もすっかり上がり、説教の時には陽の光りが差し始めていました。白柳枢機卿は力強く殉教者たちのメッセージを強調しました。「恐れることはない。勇気をだしなさい」と。

2008年11月19日水曜日

“壁を越えて”沖縄で黙想会

 10月27日から31日まで関西地区の兄弟の黙想会が沖縄で開かれ、東京からも二人の兄弟が参加してくれました。

 実は、その2週間前に、北11条教会の創立100周年と、翌日それに合わせて行なわれた、旭川での「正義と平和と環境保護」委員会に参加するため北海道に行きました。朝の温度が9度まで下がっていて暖房されていたのに、沖縄を立つ日には30度になっていました。寒冷地の北海道から亜熱帯の沖縄までの日本の国土の幅広さを改めて感じました。

 それだけでなく、北海道では、会議の後、北見、遠軽、士別教会をも訪問し、宣教師たちの残してきた足跡をたどることが出来ました。司祭不在となった士別の教会に泊めていただいたのですが、その夜たまたまNHKの『その時歴史は動いた』「神々のうた 大地にふたたび~アイヌ少女・知里幸恵の闘い」をみました。  「その時歴史が動いた」をクリックすればその内容が見れます。

 NHK の『篤姫』をごらんになっている方も多いかと思います。私もその一人ですが、その歴史はかなり美化、理想化されて描かれているように思います。400年前、薩摩藩は沖縄を侵略しましたが、明治新政府も、近代国家建設のために北海道と沖縄を利用してきました。

 黙想会は聖マリアの汚れなき聖心のフランシスコの姉妹会、聖クララ修道院で行なわれました。この修道院に隣接している与那原教会は小高い丘の上にあって、両側の壁が、床から天井までガラス張りで光と風に満ちていました。こんな教会が日本中にあったらきっと新しい発想が、新しい力が湧いてくるのではと思いました。

2008年9月29日月曜日

秋の気配が漂う京都で

 秋の気配が漂う京都で、『殉教』をテーマに1泊2日の黙想会を行ないました。
参加者は日本橋教会の青年たち5名。実は、夏休みに日本橋教会(総勢40人参加)みんなでキャンプに行ったんですが、今度は是非黙想会をして欲しいと言うことで、韓国語で黙想会をするのはしんどいのでためらっていたのですが、青年たちの熱意に押されて、チャレンジしました。

 今年は188人の殉教者が列福され、その中には京都の殉教者52人も含まれています。
また、9月は韓国では「殉教者の月」(9月20日は韓国殉教者の祭日)を祈念していることもあって、この機会に、日韓の殉教の歴史を顧みながら殉教者たちのメッセージを読み取ろうとしました。

 耳塚は、豊臣秀吉の朝鮮侵略(1592年~98年)によって殺害された朝鮮の人々の鼻や耳が切り取られ、戦功のしるしとして日本に持ち帰られ、それが京都三十三間堂の近く、東山のふもとに埋葬されたものです。同じ頃、26聖人が長崎で十字架刑に処せられています(1597年)。この耳塚から西に僅か200m離れたところ、鴨川が流れる6条川原で、徳川秀忠によって京都の市民52名が十字架にかけられ火あぶりにされて殉教しました(1619年)。

 日本の国家権力がかつて隣国を侵略し、宗教を弾圧した歴史が単に400年前の歴史にとどまらず、明治、昭和の近、現代の歴史でも繰り返されたことを私たちはしっかりと学ばなければならないと思いました。特にここ数年、日本の保守化右傾化を思う時、危機感を持って行動していかなければと思いました。

2008年8月11日月曜日

へだての壁を越えて

 大阪教区では、各地区、ブロックで8月9日~10日にかけて平和旬間の記念行事を実施しました。今回、各地区で特徴的なことは子供たちに平和を伝えようとする取り組みがあったことです。

 姫路西地区では『子供に伝われ平和』をテーマに信徒による戦争体験を聞く企画がされました。別の地区では『子供と学ぶ憲法』をテーマに戦争が作られる仕組みを学びました。
和歌山地区では8月9日19時からローソクをもって和歌山城を一周するという、ユニークな「ピースウォーク」を実施したとのことです。

大阪府下の5つの地区は、『へだての壁』をテーマに、午後1時、聖マリア大聖堂に集い、司祭修道者たちの「平和コーラス」で始まりました。私は全然練習もしていませんでしたので、一番後ろに立って口だけあけるショーエネ型参加で賛歌を。その後、『スーダン、イラクの子供たちは今』を、ジャーナリスト西谷文和氏がP.Pを使って1時間半近い公演。大阪の暑い午後の時間、扇風機だけのエコ空間で、シビアな緊張感あふれる公演に、1000人もの信徒と司祭、修道者が耳を傾けました。

 午後3時から、池長大司教、松浦司教と共に平和祈願ミサを捧げました。聖フランシスコの「平和の祈り」が、ミサの中で歌われ、共同祈願の中にもしばしば引用されていたのが心に残りました。また、日本橋の青年20人近くが中心になって、聖体拝領のときに『愛の賛歌』を韓国語で歌ってくれました。

2008年8月5日火曜日

比叡山で『世界平和の祈りの集い』

 8月4日、比叡山の延暦寺で世界の宗教者が一つに集い平和の祈りを捧げました。私も、京都フランシスコの家のルカ兄弟、クララ会の総視察者インドのヨゼフ兄弟と一緒に参加しました。ルカ兄弟が修道服を着ていたからでしょうか、私たち3人はちゃっかりNHKのニュースに出ていたそうです。

 正式宗教者代表として、キリスト教から白柳枢機卿や京都の大塚司教。海外からの代表としてバチカン大使と世界仏教徒連盟会長パン・ワナメティー師がメッセージを朗読し、世界平和を祈願し、全ての命が大切にされ、自然の恵みに感謝するよう勧告したました。「世界平和祈りの集い」のメッセージも、以下のHPをクリックして是非ご一読ください。
http://www.tendai.or.jp/summit/outline/index.html

 今年21回目を迎えたこの祈りの集いは、1986年にヨハネパウロⅡ世教皇の呼びかけで、世界の宗教指導者がイタリアの聖地アッシジに集まり、世界平和のために祈り、その実現のために話し合いを行ないました。実はその5年前の1981年に、ヨハネパウロⅡ世教皇は広島と長崎を訪れ、『戦争は人間の仕業です』と、世界に平和のメッセージを送りました。

 広島の宮司・久保田師の原爆証言は10分間の短いものでしたがすごく印象的でした。原爆公園に刻まれた『過ちは二度と繰り返しません』という鎮魂の祈りを一人ひとりが心に深く刻まなければならないと。明日8月6日は人類が、私たち一人ひとりが犯した原爆の、戦争の、紛争の、テロの過ちを心に深く刻む日です。

2008年7月28日月曜日

聖劇 「京都の大殉教 炎の十字架」

聖劇「京都の大殉教 炎の十字架」公演終わる!

 京都フランシスコの家から以下の素晴らしいメールが届きました。

7月21日、 京都市 東本願寺の大谷ホールで、「京都の大殉教 炎の十字架」が上演された。主宰はフランシスコの家のルカ神父。脚本・演出は西田明子(在世フランシスコ会・箕面兄弟会)。家族の絆・真実の愛と信仰を問う宗教劇は、1000人を超える観客を魅了し、感動の渦の中で幕を閉じた。

あまり知られていないが、京都は仏教や神道だけでなく、キリスト教にも縁の深い地である。16世紀半ば、ヨーロッパの宣教師たちはひたすらミヤコを目指し、布教活動に励んだ。京都では「ダイウス町」と呼ばれる町がいくつかあり、キリシタン達が集まって住んでいた。

しかし、やがてキリシタン弾圧の時代が来る。禁教令が厳しくなり、従わない者は見せしめのため処刑された。京都では、1619年10月6日、六条河原で52名の信者たちが火あぶりになった。日本三大殉教のひとつに数えられるこの殉教では、幼い子どもたちや若い母親らまでが大勢処刑された。

劇は、この大殉教で処刑された橋本一家(夫婦と5人の子どもたち)を中心とした物語である。信仰に導かれ、教えを守り、喜んで周りの人たちのために生きようとした庶民たちが、時代の波に翻弄され、容赦なく運命を変えられていく様子が2時間のドラマに集約されている。

僧侶出身の京都所司代・板倉勝重は、かつては宣教師の友人であり、何とかキリシタンを守ろうと苦悩するが、「この世に執着せず、与えられた命を感謝しながら豊かに生きている」キリシタンは、「仏の道にも通じている」と感じていたからである。しかし、ついには将軍直々の命令により、処刑は実行される。

 神様から与えられた命を、精一杯純粋に生きようとし、死んでいくキリシタンたち。胸が張り裂けそうな火刑のシーンで、いとしい子どもたちの魂の救いをこいねがう母親の祈りは圧巻であった。

満席の会場は、京都ならではの土地柄で、キリスト教や仏教、宗派を超えた人たちが集まり、感動を分かち合った。

2008年6月30日月曜日

 
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離散家族を探している右・李金順ヘレナさんと、中央・私と、左・白髪のご主人

離散家族を探しています。

 日本では今、拉致家族のことが大きく報道されていますが、李金順ヘレナさんは、
58年前の朝鮮戦争で生き別れになった離散家族を探しに来日されました。もし心当たりの方がありましたらお知らせください。以下はそのために作られて手紙です。

 私、李金順は朝鮮戦争で離れ離れになった家族・母と妹と弟を探しています。私の故郷は、北朝鮮の咸鏡南道(ハンギョンナムド)興南市天畿里4区36番地です。私が6歳の時に、父は死亡しました。母は妹・李キュンスク一人を連れて再婚しました。私は伯父伯母によって育てられました。伯父は興南市天畿里で鍛冶屋を職として長い間働きました。
母は再婚して、弟・韓哲(ハンチョル)を生みました。弟のもうひとつの名はバウです。私は家族と別れて毎日泣きながら暮らしていました。私が15歳の時に6,25の動乱(朝鮮戦争)が始まり、私は伯父伯母と一緒に船に乗り韓国に避難しました。故郷を離れて58年が過ぎました。
母が再婚して住んでいたところは、北朝鮮の咸鏡南道(ハンギョンナムド)の 洪原郡 三湖面 雲渓里です。新しい父の職業は郵便配達夫で、姓は「韓」、名前は不明です。2ヶ月前、6.25動乱の時、父母妹弟が船で韓国に避難するとき嵐に会い、漂流しているところを日本の船に助けられ、大阪に渡ったことが判明しました。私の母、妹、弟3人はクリスチャンです。

探し出してくださった方には100万円の謝礼を差し上げる所存です。

探している人:
母:金(김봉순)ボンスン 1921年10月8日生まれ。 88歳
妹:李(이경숙)イ・ギョンスク          70歳
     弟:韓(한 철)ハン・チョル(바우)  64歳
依 頼 人:
姓 名;李金順(이금순)イ・グムスン 1936年11月16日生まれ 72歳
現住所;〒604-851 韓国 釜山市 沙下区 下端2洞 870-25 
電 話;自宅 051-291-2175  携帯 017―577―8166

日本の連絡先:
電 話;06-6757-1792 (カトリック生野教会 中村神父)

2008年6月25日水曜日

ユギオってご存知ですか。

 ユギオってご存知ですか。今日、6月25日を韓国ではユギオと呼んで、「朝鮮戦争」が始まった日として、この日の出来事を忘れないようにと毎年記念しています。ユギオは625のハングル発音です。226事件といった言い方と同じです。

 Wikipediaではつぎのように書いています。「朝鮮戦争は1950年6月25日 に勃発し- 1953年7月27日停戦、(事実上終結)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で朝鮮半島の主権を巡って勃発した紛争から発展した国際戦争(1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している)[1]である。この戦争によって朝鮮全土が戦場となり荒廃し、朝鮮半島は南北二国による分断が確定されることになった。」

 韓国のカトリック教会は全国で、先日の22日、日曜日に「民族の和解と一致のために祈る日」とし、生野教会と日本橋の韓国語のミサでも、「南北統一祈願ミサ」を捧げました。奇しくもその日、北朝鮮で家族と生き別れたという信者の老婦人が、92歳になる母と64歳の妹を訪ねて、生野教会のミサに参加されました。この方の話によると、母親と妹は朝鮮戦争のときに、船で日本の大阪に渡ったらしいというがごく最近になって判ったため、何とかして会いたいと日本語がわかる80歳になるご主人と一緒に来日されたわけです。離散家族の悲劇は50年過ぎた今も終わっていないのですね。

2008年6月16日月曜日

ちょっといい話

 悲惨な事件、災害が続いています。梅雨の晴れ間のようなちょっと
いい話を朝鮮日報6月16日の記事に見つけました。


         「韓日両国の友情はぐくむきっかけに」
       50代の日本人、韓国の大学に2年連続で奨学金寄付

 「たとえ小さな取り組みであっても、韓国と日本の友情をはぐくむきっかけになればと思います」
 韓国と特別な縁があるわけでもない、ごく普通の日本人が、建陽大(忠清南道論山市、キム・ヒス総長)に2年続けて奨学金を寄付し、話題になっている。東京のある証券会社の投資顧問を務める間宮良雄さん(59)は昨年、「困っている学生のために使ってほしい」として、同大に奨学金50万円を寄付したのに続き、今月12日にも同大を訪れ、80万円を寄付した。

 間宮さんが韓国に対し愛情を抱くようになったのは、高校生だった約40年前のことだ。たまたまラジオで韓国の情報に接した後、韓国人との文通を通じ、韓国に対する関心や理解を深めていった。独島(日本名竹島)の領有権問題、歴史教科書の歪曲(わいきょく)問題、漁業権をめぐる対立など、韓日両国間のデリケートな問題が持ち上がるたび、韓国の立場を理解しようと心を砕いてきたという。そして、韓国に対する関心や愛情を実際の行動で示そうと、奨学金を寄付することを決心したという。母校である早稲田大の同窓生で、金総長と親しい韓国人の紹介で建陽大の金総長と知り合った。

 昨年、建陽大を初めて訪れた間宮さんは、毎年500万ウォン(約52万円)の奨学金を提供することを約束し、これを果たすために再び来韓した。今回、約束した額よりも多い奨学金を持参した間宮さんはまた、大学生の生活ぶりなど、現代の日本社会の多様な側面について紹介する講義も行った。

 同大は感謝の意を表するため、間宮さんを「専門企業人教授」に任命し、日本企業との産学協力に対する支援、日本での就職に関する特別講義などを要請することにした。間宮さんは「韓日関係がさらに親密なものになり、両国の若者たちが双方を理解するよう手助けしていきたい」と話している。

大田=ウ・ジョンシク記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

2008年5月22日木曜日

伊那谷 草々庵にて



ゴールデンウィークに長野の伊那谷にある草々庵を訪ねました。Kさんご夫妻は昨年脱サラしてここで農作業と祈りの生活を始められました。この家は250年続いた庄屋だったそうで、都会生活で疲れた人々のための癒しの場としても利用出来るようにとも考えておられるとのこと。
 
 カトリック内観を始められた藤原神父と、2人のシスター、2人の信徒が都会の喧騒をしばし離れて奥深い山里で、2泊三日のスケジュールで内観についての研修と分かち合いをしました。 (スライドショーをクリックすると拡大し、天竜川の写真などが見れます。)

 私は都合で1日早く独り,飯田線でゆっくりと天竜川を下っていきました。

   天竜の川 とうとうと 流れ行き 
           草木 青々と ゆれ
               光 さんさんと 満つ

2008年4月21日月曜日

もう一歩前進

先週、月・火と「正義と平和・環境問題」JPIC委員会が開かれ出席
してきました。委員長はA兄弟(東京)、北海道北見・釧路地区から
K兄弟、旭川・札幌からM兄弟、北関東地区からF兄弟、長野・新潟地区
からM兄弟、そして関西・九州地区からわたし中村の6名で、
委員たちの平均年齢は53歳。
なんと私が一番年寄りになっていました。

このところ、前立腺肥大で小便が近くなって困っているのですが、六本
木の本部修道院のトイレに立つと、「もう一歩前進」と書いてあります。
会議中何回もここに来て読むとはなしに読んでいますと、アッ、これは
「ケイジ」だと思いました。

A委員長はいろいろ会議のために準備してくださって、これからの
JPICの推進者アニメイターとして私たちの役割を確認しました。そのた
めの資料「新しい世界は可能である」(2003年OFM総集会で採択され
たJPICに関する実践のための手引き)と「現代の疎外された人々を抱きし
めて」(2006年OFM第2回JPIC国際大会の議事録)と「憲法9条に関する
一考察」(2005年南山大学・日豪ワークショップをまとめたもの)を頂き
ました。

恥ずかしながら、どれも一度も読んでいませんでした。会議の合間に読
ませていただいたのですが、最近のフランシスコ会のJPIC への取り組みが
よく分かりました。「現代の…」は総長によって召集された、800年祭の
準備の一環として開かれたJPIC の世界大会での話し合いをまとめたもので
「目からうろこ」の感じでした。

 六本木での最初の集まりは、フランシスカンとしてのJPIC とは何かをよく
話し合いました。そして、日本管区の兄弟たちがそれぞれの場で、既に実践
している働きに気づくこと。そのためのコミニュケーションの大切さなど分
かち合いました。そしてそれを「もう一歩前進」させることが必要だと感じ
ました。

2008年3月5日水曜日

殉教をテーマに日韓の学生が交流(1)

2月22日から27日まで日韓のカトリック学生交流会が長崎で開かれました。この交流会は1997年に、日本と韓国の司教団の間で築こうとしている和解に向けた交流を、「学生の間でも」という提案を受けて始まりました。
すぐさま1997年ワールドユースデー(WYD)パリ大会に合わせ、第1回の交流会がルルドで行なわれました。今回は第14回目で、今年188人の殉教者が長崎で列福されることもあって、“殉教”―友のために命を捨てるより大いなる愛はない―をテーマに日韓のカトリック学生が共に集い、長崎・雲仙の殉教地を巡り、原爆の悲惨さを見聞きし、長崎の信者さんのうちにホームスティも体験しました。

 最初は、言葉の壁もあって少しぎこちないところもありましたが、ホスト側の長崎の青年たちを中心にスタッフたちの心こもったもてなし、よく準備されたプログラムを通してすぐに打ち解け、すごく楽しく有意義な交流会となりました。私とナ・ヤハネ兄弟は通訳者として参加しました。私も最初はしどろもどろで通訳していましたが、夜の思案橋での司祭達の交流会では酒の勢いで流暢になりました。酒は皆さんと共にと言いながら...。

 日韓は近くて遠い関係とよく言われてきました。殉教も、信者にとっては日本でも韓国でも、身近なところで起きたことでありながら、遠い昔のこと、しかも自分たちの信仰生活とはあまりにもかけ離れていることと考えてきました。
しかし、今回青年たちと一緒に現場に行き、殉教者たちがどんな生きそして身を捧げたかを聞き、共に祈り分かち合っていく中で、殉教者たちが身近な存在となっていきました。

2008年2月29日金曜日

日本26聖人の跡をたどって巡礼。



 2008年2月11日 加古川から姫路区間17kの巡礼に、生野の共同体のルカ兄弟、ウルバン兄弟、シモン兄弟、ヨハネ兄弟、シメオン兄弟が老いに鞭打って参加しました。アッ韓国の兄弟、ヨハネとシメオンの2人はまだ若くて元気です。

 ルカ兄弟は巡礼参加者を出迎えるために、一足早く出発。他の兄弟は、8時10分、ワゴン車でJR加古川駅まで。集合時間より30分前に到着。80名以上の方が駅前に集合し、第1巡礼地加古川教会へ。ここで聖歌集と平和巡礼のバッジをいただき、最初の祈りを捧げる。 加古川教会は神戸地震のあと新築された教会で、パイプオルガンと鐘楼がひときわ目立っていました。クレト兄弟はライトバンで伴走し、遅れて到着した人を駅まで迎え、午前中お年寄り方たち3人を車に乗せることになりました。

 関西地方は前日まで記録的な大雪で、心配された天候はうそのように晴れ渡り、小春日のさす暖かい日差しの中を、目的地・姫路教会まで、親しい人、懐かしい人、新しい人との出会いを楽しみながら歩きました。 お昼は、国道2号線沿いにある「阿弥陀」という4辻の横の、ちょっとした広場でいただきました。すぐ側にコンビニもあり、温かい飲み物やお弁当を買ったり、また何よりもお手洗いを借りれたのはありがたいことでした。これも仏様のお陰かと感謝しながら、お昼の祈りを捧げ、26聖人殉教者の連祷を唱えました。

 関西地区在世フランシスコ会の主催で、今年は26回目。参加者たちの顔ぶれは京都・大阪・兵庫各地の在世会員をはじめ、OFM,コンベンツアル、女子のフランシスカン・ファミリーの修道会姉妹たち、一般信徒の方や信徒でないけどフランシスコを慕う方たちも家族ぐるみで参加された。結構お年を召した方が多く、途中の駅から参加した方もあり、最後の姫路教会のミサにだけでもと集まった方たちは総勢120人にもなりました。

 帰りはルカ兄弟も一緒に6人でワゴンに乗り姫路を5時に出発。高速では渋滞に巻き込まれ生野に着いたのは午後8時。車の中で、みんな聖霊の息吹でなく、いびきに満たされていました。目覚めて祈っていたわけではありませんが、お腹がすいて目覚めると、昼の残りのパンやおにぎり、そして誰かがもらったバレンタインチョコなどを分かち合って食べました。いびきに悩まされながらもずっと運転してくれたヨハネ兄弟、ご苦労さんでした。

2008年1月30日水曜日

もう一歩前進

 4月7月・8火と「正義と平和・環境問題」JPIC委員会が開かれ出席してきました。委員長はA兄弟(東京)、北海道北見・釧路地区からK兄弟、旭川・札幌からM兄弟、北関東地区からF兄弟、長野・新潟地区からM兄弟、そして関西・九州地区からわたし中村の6名で、委員たちの平均年齢は53歳。なんと私が一番年寄りになっていました。
このところ、前立腺肥大で小便が近くなって困っているのですが、六本木の本部修道院のトイレに立つと、「もう一歩前進」と書いてあります。会議中何回もここに来て読むとはなしに読んでいますと、アッ、これは「ケイジ」だと思いました。
A委員長はいろいろ会議のために準備してくださって、これからのJPICの推進者アニメイターとして私たちの役割を確認しました。そのための資料「新しい世界は可能である」(2003年OFM総集会で採択されたJPICに関する実践のための手引き)と「現代の疎外された人々を抱きしめて」(2006年OFM第2回JPIC国際大会の議事録)と「憲法9条に関する一考察」(2005年南山大学・日豪ワークショップをまとめたもの)を頂きました。
恥ずかしながら、どれも一度も読んでいませんでした。会議の合間に読ませていただいたのですが、最近のフランシスコ会のJPIC への取り組みがよく分かりました。「現代の…」は総長によって召集された、800年祭の準備の一環として開かれたJPIC の世界大会での話し合いをまとめたもので「目からうろこ」の感じでした。
六本木での最初の集まりは、フランシスカンとしてのJPIC とは何かをよく話し合いました。そして、日本管区の兄弟たちがそれぞれの場で、既に実践している働きに気づくこと。そのためのコミニュケーションの大切さなど分かち合いました。そしてそれを「もう一歩前進」させることが必要だと感じました。

もう一歩前進

4月7日(月)・8日(火)と「正義と平和・環境問題」JPIC委員会
が開かれ出席してきました。
委員長はA兄弟(東京)、北海道北見・釧路地区からK兄弟、旭川・札幌
からM兄弟、北関東地区からF兄弟、長野・新潟地区からM兄弟、そして関
西・九州地区からわたし中村の6名で、委員たちの平均年齢は53歳。
なんと私が一番年寄りになっていました。

このところ、前立腺肥大で小便が近くなって困っているのですが、六本
木の本部修道院のトイレに立つと、「もう一歩前進」と書いてあります。
会議中何回もここに来て読むとはなしに読んでいますと、アッ、これは
「ケイジ」だと思いました。

阿部委員長はいろいろ会議のために準備してくださって、これからの
JPICの推進者アニメイターとして私たちの役割を確認しました。そのた
めの資料「新しい世界は可能である」(2003年OFM総集会で採択され
たJPICに関する実践のための手引き)と「現代の疎外された人々を抱きし
めて」(2006年OFM第2回JPIC国際大会の議事録)と「憲法9条に関する
一考察」(2005年南山大学・日豪ワークショップをまとめたもの)を頂き
ました。

恥ずかしながら、どれも一度も読んでいませんでした。会議の合間に読
ませていただいたのですが、最近のフランシスコ会のJPIC への取り組みが
よく分かりました。

「現代の…」は総長によって召集された、800年祭の準備の一環として開か
れたJPIC の世界大会での話し合いをまとめたもので「目からうろこ」の感
じでした。

六本木での最初の集まりは、フランシスカンとしてのJPIC とは何かをよく
話し合いました。そして、日本管区の兄弟たちがそれぞれの場で、既に実践
している働きに気づくこと。そのためのコミニュケーションの大切さなど分
かち合いました。そしてそれを「もう一歩前進」させることが必要だと感じ
ました。

1石3鳥の四旬節

みなさんは四旬節をいかにお迎えですか。内観を終わった時の一つの決心として毎朝、生野から日本橋までミサのため、今まで車で行っていたのですが、歩いていくことにしました。内観同行していただいた藤原神父さんは、それはいいことだとご自分の買ったばかりの万歩計をくださいました。

 往復7k、1時間40分、万歩計で1万3千歩ぐらい。いつもより30分早起きしなければなりませんが、健康によく、ガソリンを使わないから経済的で、
環境にも優しいと、1石3鳥の四旬節の実践という分けです。問題は三日坊主になってしまわないか心配です。それでこうして公に宣言すれば、何とか続けられるかも。

 ところで、最近面白いサイトを発見しました。皆さんも一度ごらんになってみてください。
http://www.enviroasia.info/

このサイトは、日中韓のNGOの共同運営により、3言語で3カ国の環境情報を発信しています。祈りや断食は本来心ひそかに実行するものなのかもしれませんが、発想を転換して、環境問題とつなげて、グローバルにつながって実施しするのもあっていいのではないでしょうか。

http://event.yahoo.co.jp/voluntarylife/

ちなみにこのサイトも環境問題を広く扱っていて参考になると思いました。
11日から17日まで宝塚売布での内観黙想会に行って来ました。“目からうろこ”の体験でした。特に両親との関係での新しい発見となりました。まだ自分の心の深くに内在される神との出会いとまでは行きませんでしたが予感させるものを感じました。

 内観はフランシスカンの生き方にも光を与えてくれるように思いました。自分の心を深められれば兄弟との関係性もおのずと豊かなものになっていくのではないかと思っています。内観はひとつの回心の歩みだと思っています。