2009年11月24日火曜日

生野でビッグなイベントが!!

11月18日、第15回日韓司教交流会のミサが大阪・玉造の聖マリア大聖堂で開かれ、日本の司教17人と韓国の司教15人が一同に会し、司祭、修道者たち、一般信徒も含め500名以上が参加しました。昼食後、司教様たちは神戸(震災と大阪教区の新生計画)、難波(被差別部落とキリシタンたちの隠された歴史)、生野(在日の人たちの歴史と生活。キリスト者たちの連帯)の3地区に分かれて現地学習をされた。  生野ウォッチングに参加された司教たちは14人で、百済から論語と千字文を伝えた王仁博士の歌碑がある御幸森神社、韓国語が飛び交うコリアタウン、行政からの支援がほとんど受けられない朝鮮学校、在日の人権問題に取り組んできたKCC、在日のハルモニたちのために最初に来日した修道会韓国殉教福者会を歩きながら訪問された。  生野教会では「出会い そして 共に」というテーマで、生野地域活動協議会会長の向井牧師さんが生野での、キリスト者たちの在日の人々のための教派を越えた取り組みを話された。教会評議会会長の伊藤さんは在日2世として歩み、結婚を通して、教会にそして神とであった事を証された。韓国人信者会会長の李哲さんは韓国留学中、スパイ活動の嫌疑をかけられ死刑の判決まで受け、獄中でマルコ福音書と出会い、また金枢機卿に堅信と結婚の秘蹟を受けられた数奇な体験を語られた。  晩餐の席では、司教様たちはハルモニたちをはじめ在日、滞日との人々の交わりの時となり、「シンセタリョン」(その体験話)に耳を傾けられ、歌と踊りが繰り広げられると司教様たちもその輪の中に入られ宴は最高潮に達しました。

2009年10月9日金曜日

エマオの旅から帰って


ご復活の翌日(4月13日)から始まった私のサバティカル「エマオの旅」は10月12日の「幕野の集会」で終わりの時を迎えます。しかし実質、韓国の兄弟たちの訪問を終え27日、東京に戻ってきた時点で終わりを迎えました。というのは、生野の信者の一人が亡くなられ、急遽大阪に戻ることになったからです。

 29,30日とお通夜、葬儀ミサを終え、その日夜には生野・日本橋・玉造のブロック会議に出席。10月1日にはOFMの宣教司牧委員会に途中参加。とんぼ返りで土曜日はヨルダン保育園の運動会、午後7時からは「聖フランシスコの帰天祭」。翌日曜日は生野で「聖フランシスコの祭日を韓国語・日本語合同のミサ。午後3時日本橋で韓国語のミサ。午後7時は日本語のミサといった具合で日常の宣教司牧の現場に戻りました。

 先週末から咳が出て止まらず、イエンフルエンザかと心配し、となりの病院で見てもらいましたが単なる風邪のようで昨日は一日ゆっくり休みました。そういうわけでまだ荷物も片付かないままですがこれから少し「エマオの旅」をゆっくりと振り返ってみようと考えています。この旅の間、たびたび愛読し黙想した、モーリス・ズンデルの著「日常を神と共に」を新しい目標に歩んでいければと願っています。きょうの「イテ ミサ エスト」のときに皆で歌った典礼聖歌321「愛と慈しみのあるところ...」が心に残りました。

 サバティカルの期間、お会いできた兄弟の皆様に心から感謝いたします。いろんなところで大変お世話になり、いろいろとご迷惑もかけしたことも多々ありました。また、私の留守の間、生野と日本橋の韓国人司牧のために韓国から来てくださった5人の兄弟に心から感謝いたします。兄弟たちだけでなく多くの信徒の方がにもお会いで来たこと有難いことでした。カムサハンミダ!!!

2009年6月4日木曜日

聖心の御像は黙って微笑んでいるようです。


 
5月のブログに「イエスの聖心は花盛り」と書きましたが、実は御像自体は長い間、風雨にさらされて、お顔を始め結構あちこち汚れやシミがこびりついているのが気になっていました。それで御心の月にはいった6月1日、思い切って化粧直しよろしく掃除に取り掛かりました。長年のしみ込んだ汚れはなかなか取れませんでした。それでもイエス様にはお喜びいただいたようです。
 翌日、ひょんなことからある信者のご夫妻に温泉つきの山登に誘われ喜んで出かけました。お昼には、「天地人」の最初の場面に出てくるような鼻曲山(1655m)の頂上で、御ミサを捧げました。ちょうどこの日は浦和教区の司教様の零名の祝日に当たっていましたので司教様と浦和教区のために祈りました。

新緑の山を降りて、深い山間の霧積温泉についたのは4時過ぎでした。いまから35年前、神学生の頃、軽井沢から鼻曲がりを経てこの温泉に来たことがありました。温泉につかり、体を洗ってた時ふと昨日の御心のことを思い出しました。

 博多仁和加にこんな落ちがあります。
 「あんたくさ、温泉に連れて行ってやるて いいよんなったが、
ありゃー どげんなっとーとな?」
 「ありゃー 温泉のことじゃけん ゆー ばっかり」

でも、御心はだまってそっと素敵なプレゼントを下さったようです。
  

2009年5月27日水曜日

天にも昇る気持ち!?


5月24日、主の昇天の祭日に生野教会では、ウルバン兄弟の司祭叙階50周年を祝いました。朝の天気予報では60%雨でしたが、朝から庭先で、男性軍はプルコギ(焼肉)を、女性軍は焼きそばの準備で、生野パワ-を全開にして燃え上がり、雨雲を一気に払拭しました。

ミサは10時30分から得意の“日本語・韓国語チャンポン”の合同ミサです。福音書は、はじめに韓国管区のシム・インマヌエル兄弟が韓国語で、次にウルバン兄弟が50年の司祭の歩みを心をこめて通訳つきで語ってくれました。サプライズは聖体拝領の賛歌でした。なんとドイツ語で聖歌隊が“天にも届け” と感謝と喜びの歌を捧げました。それに最初に気づいたのはもちろんウルバン兄弟本人です。どんなに驚いたことでしょう。聖歌隊指導のナ・ヨハネ兄弟が密かにドイツにいる韓国管区の兄弟に頼んでその聖歌を取り寄せ、我らの院長ルカ兄弟が発音の指導をしてくれました。

もう一つのサプライズは教会学校の4人の女の子が信者の舞踊の先生に、これも密かに教えてもらって韓国舞踊を見事に踊ってくれました。実は、子ども達にとってもこれが韓国舞踊の初デビューとなりました。大阪ではインフルエンザのために1週間学校が休みだったので、お陰で(?)集中して練習できたようです。チマチョゴリを着たかわいい子ども達とウルバン兄弟の喜びの笑顔の写真はクリックしてご覧になってください。
 翌25日はウルバン兄弟の修道名の祝日でした。京都での関西地区の「兄弟の集まり」で合わせて祝いました。そして私たちは、み言葉を分かち合い、「5年先の関西地区」の宣教司牧の夢を語りました。なぜなら、私たちの思いが「天に通じる」と言うよりは、天に昇られたキリストが聖霊を遣わしてくださり、“主は私たちと共に働いて”くださるはずだからです。

2009年5月10日日曜日

イエスの聖心は花盛り


私が、この聖心に挨拶して修練院に入ったのは今から40年前のことでした。そして25年前、北浦和教会の主任として赴任した時、やはりこのイエスの聖心が迎え入れてくださった。今イエスの聖心は文字通り花盛りです。4月26日(日)、私の修道名としていただいた聖クレト教皇(呼ばれたたものの意)の祝日に、ここでミサをお捧げできたことはまことに感謝でした。 

4月28日から5月1日まで瀬田の神学校で生涯養成のコースに参加しました。
40数名の兄弟たちが参加し、管区長はじめスタッフの兄弟6名の兄弟が私たち小さき兄弟会の原点である「会則」について、それぞれの体験を分かち合ってくれました。私たち参加者も真剣に「会則」に向かいあい、分かち合いました。「兄弟と共に住むことは美しく楽しいこと」と詩篇の祈りにあり、師父フランシスコは「まことに、母がその肉親の子を養い愛するとすれば、兄弟たちはどれほど心を込めてその霊的兄弟を愛し養わなければならないであろうか。」(会則第6)といっていますが、グル-プではシビアな現実がオフレコでわかちあわれました。
 考えて見ますと、日本管区の全兄弟の半数にも達する約50名もの兄弟が3泊4日の生涯養成に一堂に集い、真剣に祈り、聞き、話し合得たこと事態、素晴らしいことであったと思いました。かつて神学1年生としてここに入学した時のように、お聖堂も食堂も兄弟たちで溢れていました。食堂ではお告げの姉妹たちが美味しい食事を心込めて作ってくれていました。レクレイションでは久しぶりに会えた兄弟たちとの懐かしくも楽しいひと時を(夜遅くまで)過ごしました。スタッフと瀬田の兄弟たちの心使いに心から感謝しました。

2009年4月21日火曜日

ガリラヤで内観、そして



復活の次の日から私のサバティカルがはじまりました。サボティカルにならないように、まずはカトリック内観をはじめられた藤原直達師のセミナーに参加しました。場所はガリラヤ湖を彷彿とさせる琵琶湖のほとりにある唐崎修道院です。
ペトロは兄弟たちと漁に出ます。それが徒労に終わった時、復活されたイエスが岸辺から声を掛けられます。「船の右側に網を下ろしなさい。そうすればとれる」と。内観的には、心の深みに網をおろす事なのでしょう。
4月20日、北浦和の修練院にやってきました。約40年前、修練者としてはじめてここにきました。それから20年後主任として派遣され、今回は第3修練?のためにやってきました。
祈りと食事の時には5分前にチャイムがなり、晩課には6人の兄弟とお隣の長崎純心会の6人の姉妹が詩篇などみな歌います。長老の兄弟の力強いみ言葉の朗読が心に響きました。そして夕食の時、イタリア人の兄弟が「日本のだよー」といってついでくれたワインがこれまたひとしおでした。

ご復活を祝ってエマオの旅へ




復活祭おめでとうございます。私たち関西地区のフランシスコ会の兄弟たちは週のはじめの日、エマオの旅へ出かけました。長い間病院司牧をされた兄弟の送別と、新しく韓国から来られた若い兄弟歓迎も兼ねて、神戸森林植物園に11時すぎに集合。簡単な昼食後、兄弟たちはかわるがわる88歳になる兄弟を車椅子で案内しながら、新緑の森を桜吹雪を浴びながら散策しました。

3時すぎに、親子の羊たちがのんびり草を食んでいる六甲山牧場を回って、今日のメイン、有馬温泉に5時ごろ到着。心と体を癒す。それから夕食は、一行がファミレスに入ろうとしたとき、会計の兄弟が今日は復活祭だからといって、なんと神戸牛の高級ステーキ・レストランへ。綺麗なお嬢さんがピアノを弾いておりました。

ある兄弟が臆せずAmazing graceをリクエストしました。
Amazing grace how sweet the sound
“はかり知れない主の恵み、なんと甘美な味わい”

2009年3月20日金曜日

大阪教区でベトナム人司祭が誕生

桜が咲きました。3月20日大阪カテドラル・聖マリア大聖堂でドミニコ・ルゥ ビン クゥさんの司祭叙階式が行なわれました。大阪教区としては、はじめてのベトナム人の司祭誕生です。民族衣装を着た子どもたちが花をかざして踊りを奉納しました。

ドミニコ ルゥ ビン クゥ新司祭はかつてボートピープルの一人で、文字通り40日40夜、荒海をさまよい日本に来られたとのこと。苦難の道を乗り越えて復活のメッセージを力強く述べ伝えてくださる事と願ってやまない。この日大阪教区の1人の助祭,2人の神学生と、スクート会の1人の助祭と3人のコンゴ出身の神学生も紹介された。

この中の一人の神学生ジャンさんは生野の修道院で1年、共同生活をされるとことになっている。先日スクート会の管区長さんと一緒に挨拶に見えました。生野の共同体はますます国際色深めていくことになり楽しみです

2009年3月4日水曜日

生野教会初め関西各地でも金枢機卿の追悼ミサ

ステファノ金寿煥(キム・スファン)枢機卿が去る2月16日ソウルの江南聖母病院で亡くなられた。享年86歳でした。
 金枢機卿は1922年にテグ(大邱)で、5男3女の末っ子として生まれる。祖父は1868年の迫害の時殉教され、同時に逮捕されていた祖母は妊娠中だったので釈放されたが、その時生まれたのが他かならぬ父ヨセフ金永錫氏であった。母マルチナ徐仲夏氏とともに迫害を逃れ、窯の仕事や行商して生計を立てる貧しい暮らしの中で、子どもたちを育てられた。

 1933年、母親の強い願いで、3歳上の兄と共に神学校に入る。1941年上智大学に留学することになるが、戦争のため一時中断されることになる。1947年、ソウルの神学校復学し1951年司祭に叙階される。「兄は喜んで司祭になったが、私は司祭の道に疑問を感じ、仮病を使って一学期さぼってしまったこともあった。しかし神の導きと母の祈りを考えないわけにはいかなかった」と述べている。

 第2バチカン公会議と重なる、1956年から1963年までドイツでヘフナー枢機卿から「キリスト社会学」を学ぶ。帰国後カトリック新聞の社長に任命され、「社会に開かれた教会」となるよう呼びかけた。 1966年、司教に叙階されマサン教区長に。さらに、1968年にソウルの大司教に任命された。 翌1969年には教皇パウロ6世によって、韓国最初の、しかも世界で最も若い47歳の枢機卿が誕生することとなった。
 
金枢機卿は、「あなたたちと皆のために」(Pro Vobis et Pro Multis)という司牧標語を掲げられたが、文字通り教会のために、そして苦しむ全ての人にその生涯を捧げられた。特に韓国の軍事政権下で正義の立場に立ち、抑圧された人々の人権を擁護した。しかし、 金枢機卿は「1970~80年代の激動期を生きる中、進歩だとか左寄りだなど考えたことがない。政治的意図や目的のためにしたことなどはもっとない。貧しい人々、苦しむ人々、そんな弱者と呼ばれる人々の側に立って彼らの尊厳を守りたいと思っただけだ」と回顧録で述べている。

関西にある韓国人信者の共同体は、金枢機卿の訃報に接し、生野教会、日本橋教会、神戸中央教会などで追悼ミサを捧げ心からそのご冥福を祈った。特に韓国人信徒が最も多い生野教会では、2月20日(金)午後7時30分、松浦悟郎司教が急遽、東京での司教会議を終え新幹線で戻られ、主任司祭・ウルバン神父と韓国人司牧担当の中村道生神父と共に韓国語で追悼ミサを司式された。

追悼ミサには,100余名の生野教会の韓国人の信徒をはじめ多くの日本人信徒も参加し悲しみを共にした。また、新聞などのニュースなどで金枢機卿の追悼ミサがあると知って、玉造教会をはじめ近隣の教会から駆けつけた人々もあった。その中には信徒で韓国領事館の家族などの姿もあった。

それだけでなく、一般市民の中で、かつて韓国で政治犯として拘置されていて、金枢機卿に助けられ無事釈放された人々も数名出席されていた。その中の一人で、生野教会の韓国人信者会の会長でもあるレミジオ李哲氏は、弔辞の中で「金枢機卿はソウル拘置所にいた自分たちを訪ね、そこで堅信の秘蹟を授けて力付けてくださった。また、拷問を受けて苦しみあえいでいる時、慰めの言葉をかけ、牛乳やりんごを差し入れてくださった」と感謝の心を述べ、金枢機卿の真の牧者としての姿を伝えた。

2009年2月12日木曜日

日本26聖人記念巡礼

2月11日、第27回目の「日本26聖人記念巡礼」が行なわれ、125名が、京都・フランシスコの家から、一条戻り橋(26聖人が始めて耳そぎの刑に処せられたところ)、西陣教会、六条正面橋(52人福者殉教者・元和殉教の跡)、羅生門(東寺の近く、聖ペテロ・バプチスタの別れの地)、九条教会まで15キロを巡礼しました。

 今回は生野教会50周年記念行事の一つとして、30名近くの信徒や修道者の兄弟姉妹が参加されました。ウルバン兄弟は15人の車を、シモン切江兄弟は10人乗り、私は8人乗りの車で、日本橋の方々を乗せていきました。数人お方は車に乗れずに電車に乗って京都まで行きました。車の中では、「世界病者の日」の教皇さまの意向に従ってロザリオを唱えました。

 韓国では、料理を作るとき、人数分よりもたくさんの人のために作る人のことを「手が大きい」という言い方があるのですが、車で行くということもあってか何人かの姉妹は他人の分までたくさん作ってきてくれました。お陰で運転手の兄弟たちはたくさん食べて出たお腹を減らすために一生懸命歩きました。
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~christian/(日本26聖人ミサと巡礼) 京都フランシスコの家のホームページをクリックするとこの記念行事の詳しい記事を見ることが出来ます。特に2009年の今回の巡礼の写真を見れます。