2009年3月20日金曜日

大阪教区でベトナム人司祭が誕生

桜が咲きました。3月20日大阪カテドラル・聖マリア大聖堂でドミニコ・ルゥ ビン クゥさんの司祭叙階式が行なわれました。大阪教区としては、はじめてのベトナム人の司祭誕生です。民族衣装を着た子どもたちが花をかざして踊りを奉納しました。

ドミニコ ルゥ ビン クゥ新司祭はかつてボートピープルの一人で、文字通り40日40夜、荒海をさまよい日本に来られたとのこと。苦難の道を乗り越えて復活のメッセージを力強く述べ伝えてくださる事と願ってやまない。この日大阪教区の1人の助祭,2人の神学生と、スクート会の1人の助祭と3人のコンゴ出身の神学生も紹介された。

この中の一人の神学生ジャンさんは生野の修道院で1年、共同生活をされるとことになっている。先日スクート会の管区長さんと一緒に挨拶に見えました。生野の共同体はますます国際色深めていくことになり楽しみです

2009年3月4日水曜日

生野教会初め関西各地でも金枢機卿の追悼ミサ

ステファノ金寿煥(キム・スファン)枢機卿が去る2月16日ソウルの江南聖母病院で亡くなられた。享年86歳でした。
 金枢機卿は1922年にテグ(大邱)で、5男3女の末っ子として生まれる。祖父は1868年の迫害の時殉教され、同時に逮捕されていた祖母は妊娠中だったので釈放されたが、その時生まれたのが他かならぬ父ヨセフ金永錫氏であった。母マルチナ徐仲夏氏とともに迫害を逃れ、窯の仕事や行商して生計を立てる貧しい暮らしの中で、子どもたちを育てられた。

 1933年、母親の強い願いで、3歳上の兄と共に神学校に入る。1941年上智大学に留学することになるが、戦争のため一時中断されることになる。1947年、ソウルの神学校復学し1951年司祭に叙階される。「兄は喜んで司祭になったが、私は司祭の道に疑問を感じ、仮病を使って一学期さぼってしまったこともあった。しかし神の導きと母の祈りを考えないわけにはいかなかった」と述べている。

 第2バチカン公会議と重なる、1956年から1963年までドイツでヘフナー枢機卿から「キリスト社会学」を学ぶ。帰国後カトリック新聞の社長に任命され、「社会に開かれた教会」となるよう呼びかけた。 1966年、司教に叙階されマサン教区長に。さらに、1968年にソウルの大司教に任命された。 翌1969年には教皇パウロ6世によって、韓国最初の、しかも世界で最も若い47歳の枢機卿が誕生することとなった。
 
金枢機卿は、「あなたたちと皆のために」(Pro Vobis et Pro Multis)という司牧標語を掲げられたが、文字通り教会のために、そして苦しむ全ての人にその生涯を捧げられた。特に韓国の軍事政権下で正義の立場に立ち、抑圧された人々の人権を擁護した。しかし、 金枢機卿は「1970~80年代の激動期を生きる中、進歩だとか左寄りだなど考えたことがない。政治的意図や目的のためにしたことなどはもっとない。貧しい人々、苦しむ人々、そんな弱者と呼ばれる人々の側に立って彼らの尊厳を守りたいと思っただけだ」と回顧録で述べている。

関西にある韓国人信者の共同体は、金枢機卿の訃報に接し、生野教会、日本橋教会、神戸中央教会などで追悼ミサを捧げ心からそのご冥福を祈った。特に韓国人信徒が最も多い生野教会では、2月20日(金)午後7時30分、松浦悟郎司教が急遽、東京での司教会議を終え新幹線で戻られ、主任司祭・ウルバン神父と韓国人司牧担当の中村道生神父と共に韓国語で追悼ミサを司式された。

追悼ミサには,100余名の生野教会の韓国人の信徒をはじめ多くの日本人信徒も参加し悲しみを共にした。また、新聞などのニュースなどで金枢機卿の追悼ミサがあると知って、玉造教会をはじめ近隣の教会から駆けつけた人々もあった。その中には信徒で韓国領事館の家族などの姿もあった。

それだけでなく、一般市民の中で、かつて韓国で政治犯として拘置されていて、金枢機卿に助けられ無事釈放された人々も数名出席されていた。その中の一人で、生野教会の韓国人信者会の会長でもあるレミジオ李哲氏は、弔辞の中で「金枢機卿はソウル拘置所にいた自分たちを訪ね、そこで堅信の秘蹟を授けて力付けてくださった。また、拷問を受けて苦しみあえいでいる時、慰めの言葉をかけ、牛乳やりんごを差し入れてくださった」と感謝の心を述べ、金枢機卿の真の牧者としての姿を伝えた。