2015年3月31日火曜日

「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ。」

釧路に派遣されて丸一年になります。何とか風邪もひかずに過ぎ越せたのは有難いことでした。数年前に気管支炎になり、歳もとってきたこともあり「寒い北海道」で大丈夫かなという心配がありました。かといって特別に健康に心がけたわけでもなかったのですが無事に過ごせたのは、空気がきれいな釧路で生活できたためと感謝しています。このことも含めて、いろんな出来事や出会いの中で、この一年を過ぎ越せたことは、多くの方々の祈りや支えがあり、こうして神様に守っていただいたおかげだと思います。

 一方反省すべきことは、いつもながらうんざりするほどあります。先週(322日)の主日の福音は「一粒の麦」の話でしたが、自分に死ぬということはなかなかできません。心安らかに「華麗なる生活」を送りたいのですが、私の毎日は、「加齢なる生活」で、鍵を亡くしたとか、テレビの声が聞こえづらいとか、人の名前とかものごとをなかなか思い出せないなどでいらいらしたり、不平や不満を募らすことが多くなっています。でも、私はある時ふと自分が霊的認知症になっているのではないかと気付いて唖然としました。一応修道者なのですが、生活の中で「主の現存」にほとんど気付いていないし、気付こうともしていません。祈りの時にでさえ、時間ばかり気にして「主の現存」に心を向けることなく過ごしているのです。気付いていないし、気付けないで、そのことに痛みも、不満も感じていないことが「認知症」だとすれば、私は神様に対してかなり重度の「認知症」と言わなければならないと思います。
 
そんな自分の弱さとか醜さを「主のご受難」と合わせて振り返った時に少し新しい気付きもいただきました。
マルコの福音書では、キリストはユダヤ教の最高法院でも、ローマ総督ピラトの前でもほとんど沈黙して立っておられます。彼らには、キリストが目の前におられるのにキリストが見えていません。ファリサイ派や祭司長たち、そして「十字架に掛けよ」と叫ぶユダヤ人たちのことを聖書で読み、典礼で記念するとき、私たちはどこに立っているのでしょうか。
ヨハネ福音書こう記しています。19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
一方ルカは、イエスにつき従おうとしながらも裏切ってしまうペトロの姿を記しています。22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。22:62 そして外に出て、激しく泣いた。