2014年8月26日火曜日

東北大震災の被災地「宮古」を訪問して(2)

札幌カリタス宮古ベースには数人のスタッフがおられ、一人の方が2週間単位で世話人として現場に入られ、宮古ベースのボランティア活動を支えてくださっています。私は前半は間島さん、後半は高平さんと二人の方のお世話になりました。
一日の主なスケジュールは以下の通りです。

6:00起床。各自の朝食作り・ゴミ出し・部屋掃除。
7:00 朝食 お昼のおにぎり作り
8:45 出発 宮古教会へ
9:00 司祭と共に出発前の祈り・派遣の祝福を受ける。
*私は、教会で宿泊。630分に朝ミサ。近くの信徒の方が23人いつも参加されました。世話人とボランティアの方々が宿舎から車で10分の宮古教会へ。ここで皆さんと一緒にお祈りし、前日のことや、これからのボランティアについての思いを分かち合いました。
10:00 移動カフェ開店。コーヒーを沸かしたり、お茶菓子の準備をします。
*仮設住宅は一戸の広さ、間取りはだいたい同じですが、その規模や状況は様々で、多くは公園や、公民館などの空地などに建てられ、必ず集会所(談話室)が設けられています。
15:00 移動カフェ閉店。その後、社会福祉協議会へ活動報告。
*仮設の責任管理は宮古市の社協が行い、どこの仮設に行くかも社協の指示に従って行い、一日の活動報告も社協にすることになっています。
18:00 夕食は買い出しから料理までボランティアですることに。
19:30から22:00 まではフリータイム。その後、就寝

二日目、725() の仮設訪問は藤原3丁目仮設で、津波のためにいまだ不通となっているJR山田線のそばにある20戸ぐらいの小さな仮設でした。
 今日は世話役の間島さんと、盛岡から来られたギタリスト佐藤さんと、私たち5人のボランティア総勢7人でしたが、相談室に見えたのはお二人だけ。札幌から送ってもらった「ジンギスカン」を準備していたのに、このお二人が私たちのために「おでんとおにぎりとソーメン」を作ってくれ、みんなでご馳走になることに。昼食後は、今年の復活祭に洗礼を受けられたという佐藤さんの手作りの歌詞カードで私たちみんなで熱唱したけどお二人だけなのでこれも空振りといった感じになりました。でもギタリストの熱い思いにみんな感動しました。

 間島さんが、せっかくの「ジンギスカン」だからと私たちのために夕食を作ってくれることに。それで、午後3時「お茶っこカフェ」を終え、ケリーさんの案内で、宮古の隣、長崎管区が受け持つ「大槌ベース」を訪問。その途中、3年半前の大震災で大きな被害を受けた大槌町の市役所のある高台に立つ。津波はこの下まで押し寄せ、住宅が押し流されていくのを私たちはTVで何度も見ました。ケリーさんの知り合いで大槌町の写真家伊藤さんにいろんな写真を見せてもらいながら当時の津波の被害の説明を聞きました。ここは行方不明者が最も多いところ。それは火災が1週間鎮火せず骨まで焼けて灰となった方々がおられるからとの説明に息をのむ思いでした。私は阪神大震災の火災で亡くなられ灰だけになった方のお葬式をしたことを思い出しました。

 宮古の佐原ベースに戻ると世話人間島さんがジンギスカン料理を準備してくれていました。夕食の団欒の時、キリスト教の話になり、癌が再発してもボランティアを続けておられる美栄子さんの心の底にある思いに触れることになりました。

2014年8月18日月曜日

震災地「宮古」の仮設を訪問(1)

東北大震災の被災地「宮古」を訪問して(1)
私は723日から82日まで、宮古の震災支援のお手伝いに行ってきました。報告が少し遅れましたが、23回に分けて報告したいと思っています。札幌教区サポートセンターではカトリック宮古教会にベースを置き、支援活動を現在まで続けています。なお、昨年6月からボランティアの宿舎は宮古市の佐原に移っています。630日から行われた全道司祭大会のなかで、司祭たちもできるだけ継続的に現地での支援に関わるようにとの話し合いがあり、今回の宮古ゆきとなりました。
出来るだけ早く、安い費用でと考え、新千歳空港からシルバー割引で花巻まで行き、盛岡からはバスで宮古には午後5時には着く予定でした。ところが、「区境トンネル」で乗用車の正面衝突の事故があり、トンネルの中に3時間も閉じ込められることになりました。なす術もなくロザリオを唱えていました。もちろん事故にあわれた方のためにも祈りましたが、半分眠りながら、半分なかなかトンネルを抜け出せないことを愚痴りながらのなす術のない祈りでした。宮古に着いたのは夜の8時過ぎでした。信徒会長のIさんに迎えに来ていただきホッとしました。翌朝ミサの時にIさんが来られ、昨日の事故で同級生の息子さんが亡くなられたので祈っていただきたいとのことでした。現場の重みを痛感させられる出来事となりました。
 
この日から、毎日仮設を訪問しました。宮古にはまだ仮設住宅が60か所もあり3000人ほどの方が入居されたままだといわれています。各仮設には集会所(談話室)があって、私たちはここでカフェをオープンし、お茶やコーヒーの接待をし、バケツにお湯を入れ、足湯のサービスもします。私は最後の晩餐の時、イエスが弟子たちの足を洗われたことを思い起こしました。
 
ここの仮設のおばあさんたち4,5人はお茶を飲みながら高校野球「花巻東と盛岡大付」との決勝戦に盛り上がっていました。ところが、田老から避難して来たというおじいさんはみんなから少し離れて外を向いて座っておられました。田老は「スーパー堤防」ができていて安全だといわれていたのですが、「3.11の津波」はこれを乗り越え、多くの人を飲み込んでしまいました。私は、仮設訪問最初の日でもあり、おばあちゃんたちの輪にも入れず、手持無沙汰にしていたところ、田老から来られたおじいさんに突然、「ちょっと肩揉んでくんねえーか」と言われ、ドギマギしながら10分くらい揉んであげました。その後、別のボランティアのご婦人が「ぜひ足湯を」と勧めました。後で、足湯をしてあげた方から聞いたのですが、そのおじいさんは少しずつ身の上話を始められ、自分の嫁と孫が田老の津波で流されたことを涙ながらに話されたとのことでした。震災後3年が経過した宮古市は、漁業をはじめ産業面においても徐々に回復しており、お祭りやイベントも行われるようになり、復興してきているのは 確かだと思いますが、被災された一人ひとりの心の深みには負いきれないほどの重荷があるのだと感じさせられました。