2014年12月30日火曜日

2014年、1年を振り返って

 大阪生野から、北海道釧路への移転は私にとって今年最も大きな出来事でした。日本の冷蔵庫とも呼ばれている釧路に着任したのはまだ雪の残る4月8日でした。福岡育ちの私にとって寒さは苦手ではありますが、それほど心配はしていませんでした。これからまだまだ寒い日が続くのでしょうが何とか過ごせるのではと思っています。空気汚染がひどい大阪に比べ釧路は空気が澄んでいて、魚介類など食べ物も新鮮で、そのせいか体調はむしろ良くなっている感じです。最近は、きれいな夕日を修道院の窓から楽しんでいます。

ただ、こちらでの宣教司牧のスタイルにまだ戸惑っています。司祭に叙階されて来年で40年になりますが、それまでずっと小教区の教会に住んで宣教司牧に従事していましたが、釧路では緑ヶ丘の修道院に居住して、4つの小教区を巡回する形なので、同じ教会の信徒と出会うのは一か月に1回で、しかも根室と中標津は100キロ近くも離れているので前日から出かけることになって、ミサが終わると1時間ぐらい信徒の方たちと関わることができますが、それ以上の司牧的かかわりは難しいのが現状で、来年から、従来と異なるどんな新しい宣教司牧を目指すか私にとって大きな課題です。

二つ目の大きな出来事は札幌教区の正義と平和の担当司祭の任命を受けたことです。これまで、人口が集中している札幌市内を中心とした札幌地区の正義と平和委員会では、プロテスタントの教会をはじめ一般市民との幅広い活動が行われていますが、同じように活発な活動を続けている旭川地区以外での北海道の各地区での社会問題に関する取り組みは動きが鈍いように思えます。一つには正義と平和の問題に関する理解がちゃんと得られてないことに原因があるように思えます。これは日本の教会全体にも言えることで、司教団はそのために、「なぜ教会は社会問題に関わるか」という本を、社会司教委員会を通して発表しています。ちなみに、カトリック中央協議会のホームページでは、教会が社会問題に関わるようになった経緯を以下のように述べています。

「1967年、教皇 パウロ六世の呼びかけにより、ヴァチカンに「正義と平和委員会」が設立され、全世界の司教協議会にたいしても同じ趣旨の委員会を設けるようにという要請が出されました。それは、貧困、抑圧、差別のなかで、人間としての当然の権利を奪われ、苦しみの叫びを上げている多くの兄弟姉妹に愛をもって応えるためでした。日本でも、1970年「正義と平和司教委員会」が発足し、これと平行して信徒による自主的な活動も始まりました。さらに74年、これら司教による委員会と信徒の活動を一本化し、今日の「日本カトリック正義と平和協議会」がスタート。世界、特にアジアにおける社会正義と平和の実現のための活動を開始し、現在にいたっています。」

1981年、日本を訪問された教皇ヨハネ・パウロ2世の広島での『平和アピール』を受けて始められた、「日本カトリック平和旬間」の取り組みや、今年で20回目を迎えた「日韓司教交流会」も正義と平和の促進を目指しています。来年、戦後70周年を迎えるあたり、このような日本の教会の動きに札幌教区全体が連帯し、福音を証する時となればと願っています。

私にとって、教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」との出会いも非常に大きな出来事でした。「新たな福音宣教は、信者に新しい信仰の喜びと、福音宣教の豊かさをもたらします。」(11)。「イエスの模範に忠実であるために、現代の教会があらゆる機会にためらうことなく、恐れることなく福音を告げるために出向いていくことは重要です」(23)と述べています。さらに、「出向いていく」教会とは門の開かれた教会です。隅に追いやれている人、道端に倒れたままにされている人に寄り添うために急用を断念し…、帰ってきた息子がすぐ入れるように門を開けままにするように…」(46)と呼びかけています。

「恐れるな、私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日あなた方のために救い主がお生まれになった。」(ルカ2,1011

 

 

 

 

2014年12月15日月曜日

幸か不幸か、、よく分からない選挙!?


自公大勝との報道ですが、自民党は解散前より議席を5減らし、民主党は逆に11議席増やし、共産党はなんと13議席も増やしています。確かに前回に引き続き今回も自公連合で3分の2以上を獲得していますが、それでも1議席マイナスですから、631億円もの巨額の選挙費用を使って何のための選挙だったのかと思います。しかも戦後最低の投票率52,67%を記録。 

安倍首相は会見の中で、「憲法改正は我が党の悲願だ」と明言しています。これから、「平和憲法」をどう守っていくか、私たちの姿勢が問われているのだと感じます。そんな中で、不幸中の幸いというか、沖縄の人たちが4つの小選挙区で「辺野古への新基地移転反対派」をすべて当選させたことはすごいことだと思います。この思いを繋げ、広げて行かなければと思います。脱原発に賭ける元民主党の菅さんが最後に復活当選したことも象徴的な出来事のように思えました。

教会は今、世の救い主の来臨を待ち望み、御降誕の神秘を聖母マリアと共に思いめぐらしています。「闇と死の陰に坐している者たち照らし、私たちの歩みを平和に導いて下さる方」に、「主よ、早く来てください」と祈りながら!

ヨハネ福音史家は力強く記しています。

「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。

      すべての人を照らす真の光はこの世に来た。」(ヨハネ1,5.9)

 

2014年11月30日日曜日

二つの島が日本を変えるかも。

 祝島をご存知でしょうか。東西に約3k。山口県の瀬戸内海に浮かぶハート形のかわいい島です。その対岸、山口県上関町四代田ノ浦に1982年、中国電力が出力135万キロワット級の原子炉2基の建設計画を発表しました。これを知った祝島のおばちゃんたちが「大切な海が汚される」と自然と集まり、「原発反対!」を叫びながら歩き始めました。それ以来32年間「上関原発建設反対」を叫び続けて、毎週月曜日の恒例の「原発反対のデモ」も今年の9月で1200回を超えました。お蔭で、いまだに原発建設のめどは立っていません。政府がバックアップし、巨大企業の電力会社がメンツをかけて原発建設を推し進めようとしても、祝島のおばちゃんパワー(もー、おばーちゃんパワーになっていますが)に勝てないでいます。201410月に埋め立て免許の期間が切れ、中国電力は県に延長を申請したが、計画は中断されたままになっています。
祝島のホームページ http://www.iwaishima.jp/ を一度ご覧下さい。

 今回の沖縄県知事選挙は皆さんよくご存じだと思いますが、普天間飛行場の名護市辺野古移設の是非をめぐり、従来の保守・革新の対立構図から 一転して、翁長雄志氏が現職の知事仲井真弘多氏に圧倒的な大差をつけて初当選を果たしました。このことを現地の琉球新報http://ryukyushimpo.jp/は11月17日の社説で以下のように書いています。
<社説>新知事に翁長氏 辺野古移設阻止を 尊厳回復に歴史的意義
   『新たな基地は造らせないとの民意は揺るがない。県知事選で、そのことがあらためて証明された。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設反対を掲げた前那覇市長の翁長雄志氏が、政府と共に移設を進める現職の仲井真弘多氏を破り初当選した。
  約10万票の大差は、県民が「沖縄のことは沖縄が決める」との自己決定権を行使し、辺野古移設拒否を政府に突き付けたことを意味する。翁長氏には、政府の強硬姿勢を突き崩して移設問題など基地問題に終止符を打つことに全力で取り組むことを期待したい。』
 
 マガジン9に紹介されている三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督の沖縄レポートhttp://www.magazine9.jp/article/mikami/16484/ 非常に興味深いです。
また、沖縄タイムズ社の記事、「オスプレイと在沖海兵隊は「御守り」にすぎない」も是非参照してみてください。http://www.okinawatimes.co.jp/cross/?id=168
 
 
 
 
 

2014年11月7日金曜日


 北海道はもう冬です。
 
最近、釧路では日の入りが午後4時ぐらいになって、きれいな夕日に見とれることが多くなりました。朝、気温が零下になる日があります。旭川や札幌では雪が降りました。「釧路では雪が凍結してアイスバーンになるから大変だ」と食事の時などに兄弟たちに脅されています。そういうわけで、昨日修道院の車のタイヤをスノータイヤに交換していただきました。業者に頼むと一本あたり、1000円~2000円もするそうですが、みんな奉仕でしていただき恐縮しています。

 明日8()は、厚岸に行き、午後1時から教理の勉強会をして、一休みして根室に向かいます。暗くなる4時ごろまでには着けると思っています。昨日の釧路新聞によると釧路から標茶に行く途中、鹿と接触し50代の男性が側溝にはまり意識不明の重体になったとありました。みんな時速80K前後で走行しているので、ちょっとしたことでも大事故につながるのだと思います。雪道ならなおさらのことで、これからが心配です。自衛隊の車が何台か前にいると鹿にぶつかることもなく安心です、イライラもします。ここは謙遜かつ従順なこころで運転するようにマリア様にご保護をお願いしなければと思っています。
 

昨日は新川の聖母幼稚園で「死者の月」にあたってのお話ということで、「イエス様と3人兄弟ラザロとマルタとマリアの話」をしました。「私を信じる人は死んでも生きる」というイエス様のメッセージを子供たちに伝えたかったのですが上手く伝えられたか自信がありません。お話のあと、一人の子どもが「神様は何歳ですか」と尋ねました。「わたしを信じる者は永遠に生きる」とイエス様がいわれたのでふと考えたのかもしれませんね。「みなさん今年ももうすぐクリスマスが来ますね。今年は何年ですか?」「2014年!そうです。2014回目のイエス様の誕生日です。」ちょっとごまかして話した感じで後ろめたい気になりました。
 

その晩、幼稚園ではじめての「天体観測会」がありました。なんとその日は、年に3回お月見ができるミラクル・ムーンの日でした。今年は171年ぶりに3度目の「お月見」が出現したわけです。ちなみに、「美しい月として親しまれる「名月」は通常年2回、旧暦8月15日の「十五夜」と同9月13日の「十三夜」に現れる。日本では古くから、「月見」としてこの年2回の名月を観賞してきた。」そうです。移動式プラネタリウムのお兄さんたちがカシオペアや織姫星なども見せてくれました。

2014年10月13日月曜日

ノーベル平和賞を受賞したマララさんらに思う


今年のノーベル平和賞の候補のトップに憲法9条が選ばれたのを知って、これは摂理だと思い、多くの人に電話やメールを送って祈りを頼みました。もちろん私もロザリオの祈りを毎日唱えてきました。それだけに、平和憲法が受賞を逃したのを知った時、正直、非常にがっかりしていました。しかし、後でマララ・ユスフザイさんや、カイラシュ・サティアルティさんらの受賞理由がわかると、これはほんとに福音のメッセージだと思い、私のちっぽけな頭が考えることより神様のなさることはほんとに素晴らしいと思いました。
 
ご存知のように、イスラム教徒の多いパキスタンとヒンズー教徒が多いインドは、イギリスからの1947年分離独立以来、領土問題と宗教問題が絡み、現在も紛争が続けています。そのため多くの難民と貧困の問題を起し、マララさんとサティヤルティさんはこれらの平和的な解決に命を懸けて活動してきました。ノ―ベル平和賞の選考委員会は、「ヒンズー教とイスラム教の2人が過激派に対抗し、教育のために同じように闘ってきたことは重要だ。世界では今も1億6800万人の子どもたちが児童労働にさられているとみられるが、この数字は2000年に比べれば7800万人減っている。世界は児童労働を撲滅するという目標に近づいている」と述べました。

 1010日の時事通信によると、「『憲法9条にノーベル平和賞を』実行委員会」のメンバーは相模原市内でネット中継による発表を見守った。活動の発案者である神奈川県座間市の主婦鷹巣直美さん(37)は、マララ・ユスフザイさんの受賞に「心からの敬意と応援の声を届けたい」と喜んだ。昨年、署名集めを始めたころ、「軍事力を否定して日本を守れるのか」などの批判の声にくじけそうになった。「マララさんに比べれば恥ずかしい小心者」と話す鷹巣さんを、仲間が支えた。この日までに44万人以上の署名が集まった。うち約7万人がインターネット署名。ネット上では、日英中韓4カ国語で受け付けており、刻々と数を増やしている。「100万人を目指す。まだまだこれからだ」とメンバー。決意を新たに活動を世界に広げていく考えだ。」と伝えています。

私も、イージーに電話やメールでお願いするだけでなく、また単にお祈りを捧げるだけでなく、マララさんたちのように、命を懸けて平和の問題、小さな人々の人権を守ることに取り組んでいかねばと考えています。とりあえず、憲法9条を守り、生かす取り組みを続けていきたいと願っています。

2014年9月25日木曜日


東北大震災の被災地「宮古」を訪問して(3)

 先月20日の集中豪雨により74人もの死者を出した広島の土砂災害は、3年半前の東北地震を再び目の当たりにした思いでした。自然の猛威を前になす術もない感じです。その上、今回も避難情報の遅れといった人災もありましたが、自衛隊や警察をはじめ多くのボランティアが救援に駆けつけました。ひとびとの「命だけでも…」というひたすら思いが伝ってきました。

 「宮古」でのボランティアの中でも若い人たちの活躍には被災者たちばかりでなく私たちも励まされました。7月の末から8月初めにかけて札幌天使大学の看護科の学生4人が夏休みを利用して3泊4日で参加してくれました。そのため各仮設のカリタス・カフェは大いに盛り上がりました。仮設に住まわれている方たちは単に奉仕を受けるだけでなく、いろんなものを分かち合ってくださいます。

7月30日は漁が解禁になったといって西岡団地の仮設の方がたが取り立ての「うに」をご馳走してくださいました。また、磯鶏(そけい)の仮設では、バザーのために刺繍した小物をみんなにくださいました。天使の学生たちはお年寄りたちの中に入ってニコニコしながら話を聞いていました。あるお年寄りは「うちの孫の嫁になって…」とか、「看護婦さんになったら宮古に来んさい」とか。夏休みで小学生も入ってきたので「かき氷」を出していたら、これに誘われてか、なんと若いお巡りさんが二人入って来ました。仮設住宅にスズメバチの巣があると110番があり駆けつけてきたとのことでした。一人は沖縄から震災支援で派遣されてきたとのことでした。みんなで大歓迎しました。お巡りさんたちも学生たちに警察の帽子や防弾チョッキを着せて一緒に写真に納まっていました。

実は、私は9月13~15日と福岡で開催された「カトリック正義と平和全国大会」に参加しました。「いのちを大切にする社会を目指して」というテーマで、韓国司教協議会会長で済州島の教区長・姜ウイル司教の講演を聞きました。2005年に「平和の島」に制定された済州島の江汀(かんじょん)村に海軍基地が一方的に建設されることとなり、小さな貧しい島民の叫びに司教様が手を差し伸べるようになった経緯を話されました。

またこの後行われた「高校生平和大使」の平和メッセージも心打つものでした。これは1995年、「高校生1万人署名活動」として,長崎で始まった高校生による平和活動で、ニューヨーク国連本部やジュネーブ欧州本部を訪問し,核兵器の廃絶と世界平和の実現を訴えてきました。高校生平和大使の活動は国連で高い評価を受け,今年8月までの累計は1,173,422筆の署名を集め大きな成果をあげています。

 

 


2014年8月26日火曜日

東北大震災の被災地「宮古」を訪問して(2)

札幌カリタス宮古ベースには数人のスタッフがおられ、一人の方が2週間単位で世話人として現場に入られ、宮古ベースのボランティア活動を支えてくださっています。私は前半は間島さん、後半は高平さんと二人の方のお世話になりました。
一日の主なスケジュールは以下の通りです。

6:00起床。各自の朝食作り・ゴミ出し・部屋掃除。
7:00 朝食 お昼のおにぎり作り
8:45 出発 宮古教会へ
9:00 司祭と共に出発前の祈り・派遣の祝福を受ける。
*私は、教会で宿泊。630分に朝ミサ。近くの信徒の方が23人いつも参加されました。世話人とボランティアの方々が宿舎から車で10分の宮古教会へ。ここで皆さんと一緒にお祈りし、前日のことや、これからのボランティアについての思いを分かち合いました。
10:00 移動カフェ開店。コーヒーを沸かしたり、お茶菓子の準備をします。
*仮設住宅は一戸の広さ、間取りはだいたい同じですが、その規模や状況は様々で、多くは公園や、公民館などの空地などに建てられ、必ず集会所(談話室)が設けられています。
15:00 移動カフェ閉店。その後、社会福祉協議会へ活動報告。
*仮設の責任管理は宮古市の社協が行い、どこの仮設に行くかも社協の指示に従って行い、一日の活動報告も社協にすることになっています。
18:00 夕食は買い出しから料理までボランティアですることに。
19:30から22:00 まではフリータイム。その後、就寝

二日目、725() の仮設訪問は藤原3丁目仮設で、津波のためにいまだ不通となっているJR山田線のそばにある20戸ぐらいの小さな仮設でした。
 今日は世話役の間島さんと、盛岡から来られたギタリスト佐藤さんと、私たち5人のボランティア総勢7人でしたが、相談室に見えたのはお二人だけ。札幌から送ってもらった「ジンギスカン」を準備していたのに、このお二人が私たちのために「おでんとおにぎりとソーメン」を作ってくれ、みんなでご馳走になることに。昼食後は、今年の復活祭に洗礼を受けられたという佐藤さんの手作りの歌詞カードで私たちみんなで熱唱したけどお二人だけなのでこれも空振りといった感じになりました。でもギタリストの熱い思いにみんな感動しました。

 間島さんが、せっかくの「ジンギスカン」だからと私たちのために夕食を作ってくれることに。それで、午後3時「お茶っこカフェ」を終え、ケリーさんの案内で、宮古の隣、長崎管区が受け持つ「大槌ベース」を訪問。その途中、3年半前の大震災で大きな被害を受けた大槌町の市役所のある高台に立つ。津波はこの下まで押し寄せ、住宅が押し流されていくのを私たちはTVで何度も見ました。ケリーさんの知り合いで大槌町の写真家伊藤さんにいろんな写真を見せてもらいながら当時の津波の被害の説明を聞きました。ここは行方不明者が最も多いところ。それは火災が1週間鎮火せず骨まで焼けて灰となった方々がおられるからとの説明に息をのむ思いでした。私は阪神大震災の火災で亡くなられ灰だけになった方のお葬式をしたことを思い出しました。

 宮古の佐原ベースに戻ると世話人間島さんがジンギスカン料理を準備してくれていました。夕食の団欒の時、キリスト教の話になり、癌が再発してもボランティアを続けておられる美栄子さんの心の底にある思いに触れることになりました。

2014年8月18日月曜日

震災地「宮古」の仮設を訪問(1)

東北大震災の被災地「宮古」を訪問して(1)
私は723日から82日まで、宮古の震災支援のお手伝いに行ってきました。報告が少し遅れましたが、23回に分けて報告したいと思っています。札幌教区サポートセンターではカトリック宮古教会にベースを置き、支援活動を現在まで続けています。なお、昨年6月からボランティアの宿舎は宮古市の佐原に移っています。630日から行われた全道司祭大会のなかで、司祭たちもできるだけ継続的に現地での支援に関わるようにとの話し合いがあり、今回の宮古ゆきとなりました。
出来るだけ早く、安い費用でと考え、新千歳空港からシルバー割引で花巻まで行き、盛岡からはバスで宮古には午後5時には着く予定でした。ところが、「区境トンネル」で乗用車の正面衝突の事故があり、トンネルの中に3時間も閉じ込められることになりました。なす術もなくロザリオを唱えていました。もちろん事故にあわれた方のためにも祈りましたが、半分眠りながら、半分なかなかトンネルを抜け出せないことを愚痴りながらのなす術のない祈りでした。宮古に着いたのは夜の8時過ぎでした。信徒会長のIさんに迎えに来ていただきホッとしました。翌朝ミサの時にIさんが来られ、昨日の事故で同級生の息子さんが亡くなられたので祈っていただきたいとのことでした。現場の重みを痛感させられる出来事となりました。
 
この日から、毎日仮設を訪問しました。宮古にはまだ仮設住宅が60か所もあり3000人ほどの方が入居されたままだといわれています。各仮設には集会所(談話室)があって、私たちはここでカフェをオープンし、お茶やコーヒーの接待をし、バケツにお湯を入れ、足湯のサービスもします。私は最後の晩餐の時、イエスが弟子たちの足を洗われたことを思い起こしました。
 
ここの仮設のおばあさんたち4,5人はお茶を飲みながら高校野球「花巻東と盛岡大付」との決勝戦に盛り上がっていました。ところが、田老から避難して来たというおじいさんはみんなから少し離れて外を向いて座っておられました。田老は「スーパー堤防」ができていて安全だといわれていたのですが、「3.11の津波」はこれを乗り越え、多くの人を飲み込んでしまいました。私は、仮設訪問最初の日でもあり、おばあちゃんたちの輪にも入れず、手持無沙汰にしていたところ、田老から来られたおじいさんに突然、「ちょっと肩揉んでくんねえーか」と言われ、ドギマギしながら10分くらい揉んであげました。その後、別のボランティアのご婦人が「ぜひ足湯を」と勧めました。後で、足湯をしてあげた方から聞いたのですが、そのおじいさんは少しずつ身の上話を始められ、自分の嫁と孫が田老の津波で流されたことを涙ながらに話されたとのことでした。震災後3年が経過した宮古市は、漁業をはじめ産業面においても徐々に回復しており、お祭りやイベントも行われるようになり、復興してきているのは 確かだと思いますが、被災された一人ひとりの心の深みには負いきれないほどの重荷があるのだと感じさせられました。

2014年6月24日火曜日

春採湖の鍵

少し古い話になりますが、6月2日、管区長の釧路修道院公式訪問の日、北見、帯広の兄弟も全員集合し、日本管区の現状などの話を聞きました。釧路名物の霧もはれ、昼休みの時間、車で5分ほどのすぐ近くの春採湖に3人の兄弟で散
歩に行きました。久しぶりの散歩で汗かくほどになり上着もとって歩きました。それが災いしてか、ポケットに入れていた車の鍵を草むらの中に落としてしまいました。他の兄弟たちにも探してもらったのですが、午後の会議も始まるのであきらめて修道院に戻ることに。
 結局、後日ホームセンターにスペアキーを作りに行ったのですが、なんとその帰りに車に乗ろうとしたら、後ろから店員の方が走ってきて「お客さん、鍵を落とされていましたよ」と届けてくれました。聖アントニオの前日の出来事でした。「お陰様で…」と店員の方にも、聖アントニオにも感謝しなければならないのですが、老化が深刻化していることを実感させられ、不安といら立ちのほうが先になってしまいました。

じっくり噛むこと
 実は、それで先日の健康診断の時に認知症の検査もしていただいたのですが、「歳相応」とのことでした。しかし、日常生活が何かと不自由になり、周りの人にも迷惑をかけることが多くなって「何とか対策を」とネットで調べたら、誰にでもすぐできることとして「よく噛むこと!」とありました。これは北浦和修道院で、長崎巡礼を始める前に1年間実施したことがありますので早速始めることにしました。

 ところで、キリストの聖体の祭日の時の福音にも「私の肉を噛みなさい」とありました。私はこの意味が今もよくわかりません。ただ気づいたことがあります。聖体拝領してもすぐ忘れてしまうし、しかもそのことにほとんど不安も心配もしていない自分がいるということです。体の老化にはすごく敏感で、心を使っているのに、石のように固くなった心の老化についてほとんど何も心配していなかった自分に気づかされました。霊的生活での「認知症、脳こうそく」はもっと深刻になっているようです。キリストの御体を「じっくり噛む」ことから始め、御言葉を深く味わう「霊的有酸化呼吸」レクチオ・ディヴィナをしなければと考えています。

2014年6月23日月曜日

新しい聖霊降臨の出来事!!


6月6日、以下のような「至急のお知らせ」が駐日教皇大使ヨゼフ・チェノットゥ大司教から、日本カトリック司教会議の会長・岡田大司教に送られ、それはすぐに全国の司教様たちに送られました。これを受けて勝谷司教様も同じ日にファックスで北海道の各「教会の皆様へ」と、その「至急のお知らせ」を送られました。これはおそらく日本の教会で初めての出来事だったと思います。

至急のお知らせ

 ご存じのように、教皇様は、聖地巡礼中の5月25日に、イスラエルのシモン・ペレス大統領とパレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長に対し、平和のたまものを神に強く願い求めるために共に祈るよう呼びかけました。そして、この祈りの集いをご自分の家で主催することを提案されました。
 み旨に従い、その集いは2014年6月8日、聖霊降臨の主日の午後に行われます。そこには、コンスタンチノープル総主教バルトロマイ一世も出席されます。
 教皇様は、すべての信者がこの瞬間を共にすることを強く望んでおられます。それにより、神に向けたこの祈りがさらに強まり、イエス誕生のときに天使が告げた平和がイエスの聖地についに訪れるでしょう。
 したがって、わたしは、司教、修道者、そしてすべての信者の皆様に、この祈りに霊的に加わるようお願いします。また、すべての善意の人々も、心の底からこの祈りを共にしていただければ幸いです。そうれば、ペトロの墓から発せられた平和への祈りが世界の隅々に広がるでしょう。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(マタイ18・19)。教皇フランシスコは、主のこの約束が果たされると信じています。

 主において、兄弟愛のきずなを新たにしつつ、皆様のご多幸をお祈りします。
         駐日教皇大使 ジョセフ・チェノットゥ大司教

 実際、聖霊降臨のこの日、バチカンの庭で対立する政治指導者たちが教皇と共に平和を求めて共に祈りました。そして全世界の教会と善意の人々が心を合わせてこの祈りに参加しました。これは、まさに21世紀の新しい聖霊降臨の出来事と言えるのではないでしょうか。

2014年5月22日木曜日

聖母像をリニューアル

 厚岸教会の庭の片隅に聖母像があるのですが、長年の風雨にさらされてペンキが剥げ落ち、悲惨なお姿に心痛み何とかきれいにできたらと思い、以前生野教会の聖母像をきれいに仕上げてくれたペンキ職人の信徒の方に事情を話すと、大理石だと彫刻ナイフでペンキ を剥がすと白い大理石の肌が出てきてきれいになると教えていただいた。さっそくホームマートで彫刻ナイフ等必要なものを買い整え、聖母像のリニューアルに取り組みました。素人ではありますが、はじめの荒削りなところはスムースにいき、だんだん元の大理石のきれいな白い肌がでてきました。とはいえ、ペンキをきれいに剥がしとるのはすごく時間がかかるし、お顔や、手足、裾などの複雑に折り重なっているところなどは仕上げが難しいです。それに、作業現場(?)が釧路から厚岸まで1時間かかりますので、川上神父様にも手伝っていただいたりしたのですが、完成まではまだ2~3ヶ月かかりそうです。
 とりあえず、正面の傷みのひどい部分はだいたい直すことができました。聖母月に入り気候も穏やかになり、ご像の周りの草花も一斉に咲き出しました。今は結構楽しみながらマリア様のお化粧直しに取り組んでいます。


2014年5月5日月曜日

日本で最初に日の出を迎える教会で!?


 釧路に派遣されて約一か月。釧路、厚岸、中標津、そして今日、5月4日の根室の教会で、担当する4つの教会で主日のミサを捧げることができました。 

集中型から広域型の修道院へ

 1975年叙階され、最初の赴任地は札幌の11条教会で2年。福岡の高宮教会は5年半。埼玉の北浦和教会が3年。次に大阪の生野教会で9年。韓国での9年の後、再び生野教会で9年。これまではいずれも都会の、修道院と教会が一つになっているところでの宣教司牧だったのに比べ、釧路修道院では、100キロから120キロも離れている広域の教会を担当する宣教司牧で、これは全くの初めての経験ですが、それに年もとっていますし、寒いのは苦手ですが、実は今わくわくしています。

 車の運転が好きで、ビルと人ごみの中を走るのではなく、限りなく続く自然の中を走るのは爽快で、興味津々です。それに、小さな地方の教会は信徒数が僅かなのでほとんどすぐに覚えられそうです。というのは、釧路に来る前にスマホに変えたので各教会の信徒の写真を写させていただいているので、顔と名前を確実に覚えることができそうです。

広域型修道院の宣教課題は?

ただ、病気、結婚、葬儀といった司牧をはじめ、信仰を深めるための司祭としての関わりはかなり難しくなっているのではないかと危惧しています。さらに、これからの宣教を考えても信徒の方との関わりをどう深めるか、課題も多いと感じています。4月29日の釧路地区宣教司牧評議委員会の集まりに初めて参加させていただいたのですが、信徒の方々の自主的で未来を見据えた具体的の取り組みは大変興味深く感じました。一緒に協力していかなければと考えています。そのためにも、やはり顔と顔を合わせる出会いと交わりは欠かせないと思います。

「私の名によって集まるところに!」

 私たちはいま、復活されたキリストとの出会いと交わりを祝っています。それは人間的な交わりをさらに超えた信仰の交わりです。私は土曜日の夕方名寄の教会につきました。エマオでの弟子たちとイエスとの出会いの福音を読みながら、一人ご聖体の前で夕の祈りをし、黙想しました。弟子の一人がイエスに願います。「一緒にお泊りください」と。ここは日本の最も東の端にある小さな教会。しかし、最初に日の出を迎える教会です。翌日、主日のミサにベトナムの若い女性が二人ミサに来て、一人の方は「使徒ペトロの手紙」をたどたどしく、しかし、しっかり、はっきりと読んでくれました。彼女たちは遠いベトナムから研修生という形で働いています。言葉も、文化も違い、しかも厳寒の地でどれほど苦労していることかと思います。しかし今このミサで、私たちは7人の小さな集まりですが、復活された主は、「私の名によって集まっているここに私はいる」とおっしゃっているのだと思います!!彼女たちの明るい笑顔がそれを証していました。

2014年4月14日月曜日

主のエルサレム入城は受難へと!?


釧路修道院に派遣されてはや一週間となります。枝の主日は釧路から東に約50K離れた厚岸教会で記念することになりました。車で、4,50分で行けると聞き、10時のミサに余裕をもって修道院を8時に出発しました。棕櫚の枝も余裕をもって10本持っていきました。主日のミサの参加者はいつも二人と聞いていましたから。また、ストーブも点けなくてはと9時10分前に到着しましたが、なんと教会のカギを忘れてきてしまい、“神から来られた方に賛美”とはいきませんでした。

 それで、教会の鍵を持っておられる信者で幼稚園の先生もしておられる方に連絡をしてもらい、何とか開けてもらえることに。その間、ロザリオを唱えながら教会の周囲を回っていると、「初めて教会に来ました。」と言いながら、一人の若い女性が近寄ってきました。私も初めてこの教会に来たんですがと言って、鍵が開くまで一緒に待つことになりました。

 彼女の話によると、新潟から牧畜をやりたくてこちらに来て就職したとのことで、また、教会のことも何もわからないけど勉強したいとのことでした。厚岸教会にとって求道者を迎えることは21世紀に入って初めて(?)ぐらいの出来事で“神から送られた方に賛美”となりました。

2014年4月5日土曜日

生野教会、韓国総領事館邸に招かれる!


 桜が満開になった4月3日、韓国大阪総領事・李賢主氏から生野教会の司祭修道者はじめ信徒役員が 晩さん会に招かれました。生野教会の信徒でもある総領事は、生野教会がこれまで大阪在住の韓国人のために行ってきたいろんな奉仕活動に対する感謝をこめてお招きした旨をユーモアを交えながら話してくださいました.

 ちなみに、総領事の洗礼名はヨゼフで、私達のためにフルコースの韓国料理を作って下さった夫人はマリアの洗礼名で、東京の大使館勤務時代に家族みんなで洗礼を受けられたとのことでした.

 最近の日韓関係の悪化にも話が及び、憂慮されているけれども、教会関係はもちろん一般社会では幅広い分野で深いつながりがあることが話し合われました。日韓司教交流会は今年で20回目となります。教皇フランシスコはアジアンユースデー参加の為8月に韓国を訪問されることになっています。アジアに真の平和と一致が訪れるように心を合わせて祈りたいものです。